三国志人物 |
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劉備(りゅうび) 字は玄徳。黄巾の乱に際して、関羽や張飛らと義勇軍を結成し、鎮圧に功績を挙げる。のちに参謀に迎えた諸葛亮の天下三分の計に基づき、蜀へ進攻した。蜀を制した後に、漢中王を称した。人には礼儀正しく接し、人物を良く見極めてふさわしい待遇を与えたといわれている。 |
諸葛亮(しょかつりょう) 字は孔明。劉備が3度も諸葛亮の家に足を運んだ「三顧の礼」以降に表舞台に立つことになる。曹操や孫権に対するために天下三分の計を説き、蜀を制することを勧めた。政治の才能は、非凡なものを持っており、時代にあった政策を行い、公正な政治を行ったといわれている。 |
関羽(かんう) 字は雲長。その武勇と義理堅さは、後世において神格化されたほどである。終生劉備に忠誠を尽くし、一騎で万の敵に対する武勇があると賞賛されるほど活躍した。その一方で、学問を好むなど文武両道の面を持っていた。敵国である魏においても「蜀で名将と呼べるのは関羽一人」と評されていた。 |
張飛(ちょうひ) 字は益徳。黄巾の乱に際して、劉備や関羽らと義勇軍を結成して以降、劉備に仕えた。一人で一万の兵に匹敵すると賞賛されるほどの剛勇の持ち主であった。血の気が多く短慮な面があり、劉備から常々注意されていた。しかし改める事が出来ず、部下の裏切りにより最後を迎えることとなった。 |
趙雲(ちょううん) 字は子龍。五虎大将軍の一人とされ、劉備の腹心の武将であった。関羽、張飛と並ぶ武勇の持ち主で数多くの勲功をたてた。自ら自陣に敵を招き入れることで敵の警戒心を誘う計略「空城計」を用いて強敵曹操を撤退させるなど、人並みはずれた度胸の良さで多くの戦いに貢献した。 |
黄忠(こうちゅう) 字は漢升。老いてもなお勇猛果敢な活躍を見せた五虎大将軍の一人。この活躍により、老いてますます盛んな人を指して「老黄忠」と呼ぶようになった。関羽と互角に渡り合うほどの武勇の持ち主であった。また、百発百中の弓の名手としても知られている。 |
馬超(ばちょう) 字は孟起。武勇誉れなことから「西涼の錦馬超」と称えられた五虎大将軍の一人。羌族との混血であったこともあり、漢王朝の支配を受けない民族からの信望が厚かったといわれている。蜀に身を寄せて以降は、曹操と劉備との漢中攻防戦において、数多くの功績を残した。 |
三国志人物 |
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馬良(ばりょう) 字は季常。五人兄弟は皆優秀であったが、その中でも最も優れていると評されていた。眉に白い毛が混じっていたことから、優れた人物を「白眉」と呼ぶ故事の基となった。内政面において優れた才能を発揮し、諸葛亮が南蛮制圧へ出兵する際には、留守の内政を託されるほどであった。 |
馬謖(ばしょく) 字は幼常。白眉で知られた馬良の弟。人並みはずれた才能は諸葛亮に高く評価されていた。蜀と魏の街亭の戦いでは、己の才能への過信から惨敗を喫す。諸葛亮は馬謖の才能を惜しみながら処刑した。これが後に「泣いて馬謖を斬る」といわれる故事の基となった。 |
姜維(きょうい) 字は伯約。文武両道の面で、諸葛亮が「涼州で最高の人物」と評するほどの才を持ち合わせていた。蜀の軍事の中枢を担うようになって以降、何度も北伐を敢行したが、成功することはなかった。蜀滅亡後も、復興に奔走したが叶わず最後を迎えることとなった。 |
魏延(ぎえん) 字は文長。類まれな猛勇ぶりで数多くの功績を残した。五虎大将軍が全員亡くなった後、蜀において欠かせない存在となるが、諸葛亮とは戦略を巡って何度も意見が衝突した。諸葛亮の死後、遺言であった北伐撤退に従わなかったことで敢え無き最後を迎えることとなった。 |
曹操(そうそう) 字は孟徳。三国時代の魏の基礎を築いた乱世の奸雄。家柄や過去に拘らず、才によって人々を用いるといった登用姿勢で、才能を存分に発揮した人物は数知れない。文武両面における非凡な才能を最大限に発揮し、稀代の名将とも時代を超えた英雄とも評された。 |
張遼(ちょうりょう) 字は文遠。その戦いぶりから「泣く子も黙る張遼」との異名を持つ。大軍を相手にも果敢に戦いを挑んだ合肥の戦いでは、敵の総大将孫権を後一歩のところまで追い詰める活躍を見せた。この猛勇ぶりは、敵国においても広く轟いていたといわれている。 |
典韋(てんい) その怪力ぶりから、殷の紂王に仕えた猛勇の将にちなんで悪来といわれていた。張繍が謀反を起こしたとき、窮地に陥った曹操を逃がすために死にもの狂いで戦い、全身に弓矢を浴び、直立不動のまま息絶えたとされている。曹操は典韋の死を、息子の死以上に悲しんだといわれている。 |
夏侯惇(かこうとん) 字は元譲。曹操が拳兵した時から付き従っていた武将。曹操は、配下として扱わない特別待遇である不臣の礼として魏の官位を与えようとしなかった。猛勇であったが、性格は慎ましく、日頃から学問や鍛錬に励むことを惜しまなかったといわれている。 |
夏侯淵(かこうえん) 字は妙才。剛直な猛将で弓術に長けていたといわれていた。戦場においては急襲戦を得意とし、その迅速な行軍は「三日で五百里、六日で千里」と称えられた。また、幾多もの反乱を平定し、曹操の勢力下の治安維持に貢献するなどの功績を数多く残した。 |
司馬懿(しばい) 字は仲達。魏の軍師で、諸葛亮に匹敵する策略家。その才気と鋭敏さは、乱世の奸雄曹操ですら警戒していたといわれている。臆病者と後ろ指をさされるほどの慎重さとその戦略眼は諸葛亮も非常に高く評価していた。その才気で、魏における権力闘争を制し、全権を掌握した。 |
三国志人物 |
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郭嘉(かくか) 字は奉孝。曹操に仕え、その才を遺憾なく発揮した軍師。若い頃から将来を見通す洞察力に優れており、その才を曹操は非常に高く評価していた。物事に深く通じ、的確な見通しを持っていたことで、曹操から絶大な信頼を寄せられていたといわれている。 |
徐庶(じょしょ) 字は元直。劉備の軍師として名を馳せる。謀略により止むなく曹操に下ることとなるが、その去り際に劉備に諸葛亮を推薦したことでも知られる。赤壁の戦いでは、曹操の大敗につながる連環の計の真意に気づきながらも見逃していたともいわれている。 |
鄧艾(とうがい) 字は士載。司馬懿、司馬師、司馬昭の司馬3代にわたって、その才能を非常に高く評価され重宝された。蜀との戦いにおいて立て続けに功績をあげた。蜀平定にあたっては、要衝を迂回するという奇襲作戦を実行し、蜀を滅亡に追いやることに成功した。 |
孫堅(そんけん) 字は文台。忠義と勇壮さを備えた武将で「江東の虎」の異名を持つ。孫子の末裔であるともいわれている。反董卓連合の一軍として、董卓軍と激戦を繰り広げ、数多くの功績を残した。劉表との戦いのなかで、敵の策謀に嵌り、敢え無き最後を遂げた。 |
孫策(そんさく) 字は伯符。江東の虎の異名を持つ孫堅の長男で、容姿端麗で武芸に長けていたといわれている。瞬く間に江東を平定し、体制を強固なものとするべく人材登用を積極的に行い、呉の基礎を築いた。躍進のめざましさは、かつて覇王を称した項羽にあやかって小覇王と称される。 |
孫権(そんけん) 字は仲謀。江東の虎孫堅の次男で、小覇王孫策の弟。弱冠19歳で孫策の後を継ぎ、有能な家臣団を上手くまとめあげながら、巧みな外交政策で勢力を拡大させた。幾多もの戦いを経て三国の領域が確定した後には、自ら皇帝を称し、呉の初代皇帝となった。 |
張昭(ちょうしょう) 字は子布。若い頃から学問に励み、智謀に長けていた。孫策に参謀として招かれ、存分に才を発揮した。孫策からの信任は厚く、政治や軍事の一切の裁断を任されていたといわれている。孫策が遺言に「内なる事は張昭に、外なる事は周瑜に相談せよ」と遺すほど、呉の長老的な人物であった。 |
周瑜(しゅうゆ) 字は公瑾。曹操や劉備が恐れるほどの才能の持ち主。知略、武略に優れる名将であり、味方からは慕われ、敵からは恐れられた英雄的存在であった。水軍を操る才能について、諸葛亮が「水軍を操らせたら周瑜は天下一」と言わしめるほど才気にあふれた人物であった。 |
魯粛(ろしゅく) 字は子敬。周瑜に才気を評価され、遺言で自身の後継者として指名されたほどの人物。劉備との連携に尽力し、周瑜の死後は孫権の舵取り役として活躍した。沈着冷静にして剛毅な人柄で、外交官、行政官として卓越した手腕の持ち主であったといわれている。 |
呂蒙(りょもう) 字は子明。赤壁の戦いをはじめ、曹操との戦いや反乱平定で数多くの功績を挙げた。勇敢であるとともに軍略を知る武将と評され、関羽が「呉随一の武将」と評価するほどであった。後継の陸遜の才能をいち早く見抜き、孫権に推挙したことでも知られる。 |
三国志人物 |
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甘寧(かんねい) 字は興覇。周瑜、呂蒙が連名で孫権に推薦した呉の勇将。泣く子も黙る張遼との戦いで、その名を世に轟かせた。孫権は「曹操には張遼がいて、私には甘寧がいる。丁度釣合が取れているな」と言い、甘寧の武勇と豪胆さを賞賛したといわれている。 |
黄蓋(こうがい) 字は公覆。孫堅、孫策、孫権の3代に仕えた。統治が困難な地域において、法令に厳格な処罰をおこないつつも、強きを抑えて弱きを助ける統治を行ったため、人々から慕われていた。赤壁の戦いでは、自らを傷つけることで敵に偽りを信用さる苦肉の策を演じ、大勝へと導いた。 |
程普(ていふ) 字は徳謀。孫堅以来、孫策、孫権の三代に仕えた呉の武将。古くから仕えていた古参の武将でもあったことから、程公と呼ばれていた。州郡の役人時代から非凡さが際立っていたといわれ、孫堅が董卓討伐のために出陣すると、孫堅とともに反董卓連合軍に加わった。 |
陸遜(りくそん) 字は伯言。呉随一の武将といわれた呂蒙によって、その才を見出された武将。呉と蜀の決戦であった夷陵の戦いにおいて、軍の指揮官として戦い、火攻めで蜀に壊滅的な打撃をあたえ、見事に蜀を撃破した。その知略は周瑜や呂蒙に劣らずと人々から称されたといわれている。 |
太史慈(たいしじ) 字は子義。孫策との一騎打ちでは引けを取らないほど武勇に優れ、弓を扱えば百発百中の名手であったといわれている。孫策、孫権の2代に仕え、数多くの功績を残し、重用された。敵であった曹操も、自らの家臣に迎えたいと思ったほどの人物であった。 |
呂布(りょふ) 字は奉先。人間離れした武芸で最強といわれた武将。その一方で知謀には欠け、節操がなく物欲の強い性格であったといわれている。優れた武勇を持ちながら、計略に疎く、猜疑心が強いため部下を制御できず、最後は裏切りにあい、敢え無い最期を遂げることとなった。 |
董卓(とうたく) 字は仲穎。黄巾の乱に乗じて前皇帝を廃し、献帝を擁した上で、宮廷で権勢をほしいままにした。この専横に反発して反董卓連合軍が組織された。粗暴ではあったが、知略と武芸はともに優れ、馬上で左右のどちらの手でも弓を引くことができたといわれている。 |
袁紹(えんしょう) 字を本初。その存在自体が周囲に影響をあたえるほどの名門出身。反董卓連合の盟主に推挙された人物。北方一体を制することに成功し、同時代屈指の一大勢力を築き上げた。しかし、一大決戦であった官渡の戦いで曹操に敗れ、衰退してしまう。 |
張角(ちょうかく) 黄巾の乱の指導者で、自らを大賢良師天公将軍と称して信者を集めた。腐敗した漢王室を打ち倒すというスローガンを掲げ、民衆の支持も得て全土に広がった。この後、漢王室の権威は地に落ち、群雄割拠時代、そして三国時代へと移行していく一つの契機となった。 |